淵野辺から世界へ!

20代。140字以上。

加齢、変化、偏屈

最近、いつも変化について考えている。


今年も新卒が入ってくれて、社内が少し華やいでいる。
数年前の自分とは違って礼儀正しくて、意見もちゃんと主張していいなあ、とか思いながらメンターをしている。うちの後輩は優秀なのです。
さて、彼らと話をしていると、自分の見られ方の変化を感じる。例えば、自分がまったく面白くないこと言っても笑ってくれるときなんかがそう。気を遣うのも嫌だけど、後輩に気を遣わせるのはもっと嫌だ。これはいつか彼らを苦しませることになるから、やめないといけない。


先日、実家に帰ったとき、やけにうるさいテレビ番組と、テレビに話しかける父親に驚いた。発言内容もやけに右傾化していると感じた。
父も、もう70代。耳は遠くなるし、考えも人並みに偏屈になってしまった。加齢ってそういうもんだよな、と認めつつも、今まで目を背けてきた介護とか、その先にある死について、また父の死の先の、歳をとった自分についてもぼんやりと思いを馳せてしまった。


クリティカル・シンキングは疲れる。あるニュースを見て、批判的に捉え、いくつかのソースにあたり、自分なりの論理を組み立てるのは、非常に面倒で、疲れる。20代の今はまだ、考える体力があるからできるけど、いつか私たちは、耳障りのいい話しか聞き入れられなくなるだろう。いつか自分も、程度の差こそあれ、今日の父親と同じように、ワイドショーと週刊誌から仕入れた「自分が信じたい情報」だけに囲まれ、それらを信じるようになるのだろう。


いま気になっているのは、いつか偏屈親父になった私にとっての、その時の友人や恋人、家族など、身近な人の意見の重要さについて。そもそも、高齢者の同じコミュニティの人は同じ感じの意見を持ちやすい(というか、意見が違いすぎると疎遠になる気がする)から、そこから仕入れられる情報も結局、「自分が信じたいもの」の域を出ないだろう。もし身近な誰かからの反対意見が出たとしても、その付き合いの長さや関係性から「あの人はいつもそういうよね。」みたいな扱いをし、聞く耳を持ち続けられないと思う。また孫世代の人たちからの意見についても、そもそも20代の今でさえ気を遣われるのだから、自分が聞きたくない意見を手に入れる機会は稀で、ましてその情報を重く受け止めることは難しくなるだろう。すごく嫌だけど、イメージはできる。


自分の嫌な情報は入ってこない、自分の意見にみんなが共感してくれる世界って、どんなだろう。なんとなく、そこまで悪いもんじゃない感じがするけど、そこから何か価値が生まれるイメージはない。別に価値を産み続ける必要はないんだけど。