「ミスチルとかGLAY、一青窈、今井美樹はクソだ。不倫するような奴らが恋愛を歌うな」って思っていた時期がある。何がダーリンダーリンだksって悪態ついていた時期がある。
その当時の僕は歌手に聖人性を求めていたんだと気付く。『ラブソングを歌う人はピュアでなければならない/ピュアな人に決まっている』って。この考えを捨てられたのがいつなのか覚えていないけど、多分テレビ局でアルバイトをしていた時期だと思う。
ゲストにアイドルが来た。彼女らは他のどの著名人よりも礼儀正しく、僕たち裏方にも気を配ってくれた。『おはようございます、おつかれさまです』って一人一人に丁寧に対応するもんだから、ピコピコゴリラってディスってた僕でさえもすぐにファンになってしまった。逆に、清純さがウリの女優がひどい態度で共演者に当っているのもみたし、イケメン俳優に人懐っこい笑顔を向けられてドキッとしたこともあった。バイトを通じて、当たり前だけどテレビが映すのは誰かの一面だけだっていうのがわかった。そうして初めて『歌手だって例外ではない。私生活と歌が100%マッチするわけないじゃん』って気付けた。
以前、小学生と『悪い人』について話したことがある。
「電車の中で大声で騒ぐ人はいい人?」
「ううん、わるい人。」
「じゃあもしその人たちが電車を下りて、お年寄りに優しくしたら、いい人?」
「うん。それはいい人。」
こんなもんなんだ。いい人、わるい人なんてのは最初からなくて、代わりにいいこと、わるいことがある。だからいい歌をやる人が不倫をしたって、人間ってそもそもそういうもんなんだから、いいんだ。歌は歌。人は人。
向田邦子がエッセイの中で
『ウェイトレスや看護婦さんや、ユニフォームを着て働く人を見るたびに、この下には、一人一人、どんなドラマを抱えているかも知れないのだ。十把ひとからげに見てはいけない、と自分にいいきかせている(ねずみ花火)』と言っていた。
他人の一部だけを見て、その人を判断してはいけない。僕らが見られるのは、ある人の本当にごく一部。一人の中に色んな面があるから、人は面白いし、尊い。これからもそういう当たり前を楽しめる人間でありたい。ウェイトレスにも看護婦にもそれぞれのドラマがあるのだから。
レジでお金を払うときには、ヘッドホンをはずして、電話はしまおう。釣りをもらったら、声を返すか、せめて微笑むようにしよう。店員は自販機ではない。どんな時であれ、人と接するのではないように人と接してはいけない。人を人でないかのように扱うことへの慣れが、世界の居心地を悪くしているのだ。
— 井上雅人 (@INOUE_MASAHITO) October 19, 2010
アメリカにきて、著名人の扱われ方が日本のそれとは違うことに気付いた。
セレーナ・ゴメスがジャスティン・ビーバーと付き合ってもも叩かれないし、大統領が不倫しててもクビにならない。漢字が読めなくて首相が辞任したり、誰かと付き合うと叩かれる日本の大人数アイドルとはワケが違う。
その背景にあるのは文化的なものではないかと思う。
「アイドルだって人間なんだからウンコもすれば、恋愛もする。当たり前じゃない」っていうアメリカと「アイドルはイメージを売ってるんだから、汚れてたらいけない」っていう日本。アイドルっていう一面しか切り取らない日本と、主婦で妻で親でアイドルみたいなのが許されるアメリカ。そういうの、面白い。アスリートの出産は叩くもんじゃない。
アイドルはこうだ。政治家はこうだ。ウェイトレスは、看護婦は、アメリカ人は、あのひとは。誰かの一面を切り取って決め付けるのは、とっても楽だけど、も。