淵野辺から世界へ!

20代。140字以上。

母を赦そうと思う

物心ついた頃から、母はカルトの幹部で、スピリチュアルと山岳信仰をハイブリッドさせた何かによって幸せになれると信じていた。

本当の自分、前世、生まれてきた使命、魂のちから、といったものがキーワードのようで、幼い自分も瞑想によって前世を思い出せるとか言われてた気がする。

 

ある日突然「お前がいると家の波動が悪くなり、家族が不幸になるから出て行け」という言葉をきっかけに、一人暮らしが始まったこともあった。「うちの母はちょっと変だけど、まあそのうち収まるだろう。更年期障害とか、あるいは自分探しだろう」くらいに考えていた自分が完全に心を閉ざし「親も他人である」と確信したのはこの時だ。

以来、あいつさっさと死んでくれないかな〜 とすら思ってきた。こうして文章にしてみるとなかなかパンチのある表現である。誰かに対してここまで強い感情を持つことは稀だから、これはきっと「母=優しい、自分の味方」といった高いハードルがあったが故の、反動な気はしている。

この母子関係は当然、自分の人格に大きく影響を与えていて、例えば自分は感情が切り離されていると感じるときがある。人にそれを指摘されることもあるが、これは多分自己防衛の一環として確立された性質だろう(何か悲しいイベントがあっても、泣いている人を見ないと泣けない / 悲しいイベントがなくても、泣いている人を見れば泣ける / 自分はいま悲しいんだと思い込めばいつでも泣ける, などのバグもある)

もちろん、悪いことだけではなかった。母のおかげで「家族」というステータスですらこうなのだから、信頼しても裏切られることがあること、簡単に人を信頼してはいけないこと、裏切られると傷つくこと、だからこそ信頼できる友人は大事にしたほうが良いこと、など人との関わり方について学んだ。


しかし、誰かの死や不幸を願うことは疲れる。それに、あの強烈だった出来事も、10年も経つと、恨みや驚きはほぼ風化している。最近、そろそろ赦してみようか、と思うようになった。


きっかけは、クライストチャーチで奥さんを失った男性のインタビュー。
彼は「犯人に恨みはない、犯人も救われることを祈る」と言っていた。

 

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憎まない。恨まない。赦しを与える。
ウサインボルトの記録を破ったり、エベレストに無装備でアタックしたり、10億人が使うSNSを作ったり、シンドラーがしたようなことではなく、誰にでもできること。これをやってみようと思う。

 

まだ、彼女の顔を見て話すことはできないし、もちろん握手も抱擁もできないけど、自分の中で、赦すと決めてみる。どうなるかな。